能登に移り住んでから、よく耳にする言葉。
かつての能登半島ブーム
奥能登に住まないと聞かれない言葉なので、これも方言のうようなものかとも思う。
で、いつのことなのだろうと、調べてみた。そしたら、第一次能登半島ブームと、第二次能登半島ブームのあったことが分かった。
第一次能登ブーム
昭和30年代半ば~昭和40年代にかけて、能登半島が最後の秘境、陸の孤島として注目され、全国から大勢の観光客が集まった「第1次能登ブーム」が起こりました。そんななか、昭和36年(61年)に輪島~珠洲~宇出津駅前間を運行する能登半島定期観光「おくのと号」が開業。北陸鉄道(株)と国鉄バスの共同運行として、能登ブームを支えたのです。
映画「ゼロの焦点」(中略)は1961年の映画化でも「能登ブーム」のきっかけとなった
昭和36年/1961年/54年前。この頃が第一次能登ブーム。
「映画が火付け役になった」という話は、よく聞く。吉永小百合主演と聞いていたが、久我美子という女優さんだった。人の記憶は曖昧だ。
「観光バスが砂利道を砂煙をあげて走るのを、避けて歩いていた。」というのは、第一次の頃の記憶かな。
第一次の終わりが、いつのことなのかはよく分からない。たぶん人によっては、第一次と第二次はずっとつながっていたんだろうと思う。
3年ほどまえに「能登は秘境なんだってね」という人がいた。当時のキャッチフレーズがいまだに生きている。
第二次能登ブーム
大阪で開催された万国博の頃から、国鉄は「ディスカバージャパン」と銘打った作戦に出たが、これに乗じて「能登半島ブーム」が巻き起こり
能登半島には列車だけでなくマイカーによる旅行者も激増した(中略)ゴールデンウイークに(中略)津幡から、何と輪島までが渋滞の列になったという。
昭和40年代後半からの第2次能登半島ブームの時には、たくさんの民宿もできました
大阪万国博覧会は、昭和45年/1970年/45 年前。この頃が第二次能登ブーム。
「一車線しかない砂利道が、びっしりと車で渋滞して、すれ違うこともままならなかった。」とか「蟹族が改札を通る際に云々」とか「民宿が常に満員で、民家の廊下にまで客が泊まった」という記憶は、第二次の頃の話かな。
津幡から輪島までが渋滞の列って、津幡駅から輪島市役所まで104kmあるけどね。ほんとの話か。
国鉄能登線
能登半島ブームと深く関わった、国鉄時代の能登線の歴史も気になった。
内浦タイムス05/02
昭和34年/1959年 国鉄能登線、穴水、鵜川間開業
昭和35年/1960年 鵜川、宇出津間開業。国鉄七尾線に金沢発輪島行き準急「のとじ」が登場
昭和37年/1962年 宇出津、松波間開業。
昭和39年/1964年 松波、蛸島間開業(能登線全通)。いくつかあった準急を統一して準急「能登路」とする。東京オリンピック開催、東海道新幹線開業。
昭和41年/1966年 準急能登路が急行に格上げ。能登ブームが起こる。このころの能登半島が最もにぎわったと言われている。
第一次ブームの昭和36年頃には宇出津まで列車で来られた。そっから先はバス能登半島定期観光「おくのと号」が運行していた。
第二次ブームの昭和45年頃には蛸島まで全線開通済み。ジャパンをディスカバーしに列車の旅が賑わったに違いない。
エネルギー革命
ついでに、 半島ブームと同時期に来たということで、話に上るエネルギー革命の時期はいつなのか。
1950年代に中東やアフリカに相次いで大油田が発見され、エネルギーの主役が石炭から石油へと移行した。日本においても1962年(昭和37年)10月の「原油の輸入自由化」をきっかけとして、石炭は長く続いたエネルギーの王座を石油に譲ることとなった。大量に安く供給された石油は、さまざまな交通機関、暖房用、火力発電などの燃料として、また石油化学製品の原料として、その消費量は飛躍的に増えた。
昭和37年/1962年/53年前というと、第一次能登ブームの始まり時期とおおよそ重る。
石炭から石油や天然ガスに燃料の主役が転換したことをエネルギー革命と呼んだ。奥能登にあっては、石炭からの転換ではなく、囲炉裏やかまどから、ガスコンロでの調理への一足飛びの転換だったと聞く。
いま70歳の人が17歳。60歳の人が7歳。その頃、奥能登にガスコンロがやってきた。そりゃあ、囲炉裏を実際に使ってた知恵を持つ人が沢山いるわけだわ。ブームと革命で、生活が一変したのだろうなと想像する。
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